※※※ 鋭意製作中 ※※※
【ヒストリカル枚方】第1回:枚方・牧野公園に眠る、坂上田村麻呂の後悔——石碑と伝承

「ヒストリカル枚方」は、枚方の歴史に光を当てるシリーズ。今回のテーマは、征夷大将軍・坂上田村麻呂と、蝦夷のリーダー・アテルイ、モレの物語です。
実は、坂上田村麻呂にまつわる石碑が、枚方市・牧野公園にひっそりと佇んでいるのをご存じでしょうか。

京阪電車・牧野駅から徒歩10分。マンションや銀行、郵便局を抜けると、小高い丘の上に「枚方八景」のひとつ、桜の名所として知られる牧野公園があります。
春にはお花見客でにぎわい、近くには片埜神社や牧野図書館・公民館なども並ぶ、のどかな地域です。



けれどこの公園には、日本の古代史を大きく動かした「征夷大遠征」の記憶が、静かに息づいています。
なぜ、この枚方の地に坂上田村麻呂ゆかりの碑があるのか――。
そこには、将軍ではなく、ひとりの人間としての葛藤と、ある決断の痕跡が刻まれていました。

枚方・牧野公園と坂上田村麻呂の物語のはじまり

私は子どもの頃、牧野公園でよく遊んでいました。
木製アスレチックにシルバーのすべり台。友達と遊具で遊んだり、お花見をしたり――公園は、日常の楽しい場所でした。
公園の中央には塚があり、大きな木が一本立っていることも、もちろん知っていました。
根元には小さな石碑。そして、供えられた花や飲み物。でも、記憶はあいまいで、風景の一部として見過ごしていたのです。

そんな私が、大人になり、ローカルメディア《Re:HIRAKATA》の撮影で再び牧野公園を訪れたときのこと。塚の前に立って、思わず足を止めました。
そこには大きな石碑と、その由来を記したプレートがあり、ある人物の名前が目に飛び込んできたのです。

「征夷大将軍」「坂上田村麻呂」「蝦夷」――
歴史の教科書で見覚えのある固有名詞が、まさかこの場所で登場するとは思いませんでした。
さらにプレートには、蝦夷のリーダー・アテルイとモレが現在の枚方の地に留められていたこと、そして最終的に朝廷の命により処刑されたことが記されていました。
しかも、「坂上田村麻呂はその処刑に反対していた」とも。

衝撃でした。
まさか自分が生まれ育った枚方で、そんな日本史に残るような重大な出来事が起きていたなんて――まったく知らなかったのです。

歴史の点と点を、自分のまちからつなぎ直す

あの日、牧野公園の石碑の前に立ったとき、胸の中に小さな疑問が次々に浮かび上がりました。
「なぜ、アテルイとモレは、生きたまま都へ連れてこられたんだろう?」
「坂上田村麻呂が、アテルイとモレを助けようとしたのはどうして?」
「どうしてアテルイとモレが留められた地が、枚方だったのか?」
答えのない問いが、波のように押し寄せては引いていく。私は、それらの問いから目をそらしたくありませんでした。
史実に刻まれた断片、地元に伝わる小さな記憶、そして自分のなかにある疑問。
それらを少しずつつなぎ直しながら、「自分の足元にあった歴史」を、自分の言葉でたぐり寄せてみたくなったのです。
その想いこそが、歴史コラム「ヒストリカル枚方」連載の出発点でした。

次回以降は、征夷大将軍として知られる坂上田村麻呂とはどんな人物だったのか。アテルイとモレは、なぜ歴史に名を残したのか。そして、「処刑」という出来事が意味していたものとは。史料とともに、丁寧に読み解いていきます。
枚方のまちにひっそりと眠る、「もうひとつの歴史」。
その物語を、静かに、でも確かに伝えていきたいと思います。


もくじ
第1回:枚方・牧野公園に眠る、坂上田村麻呂の後悔——石碑と伝承
第2回:東北の地を見つめたまなざし——征夷大将軍・坂上田村麻呂という人物 ※6月28日公開予定
第3回:蝦夷文化とアテルイ、モレ——朝廷に抗ったふたりは反乱者か、英雄か ※7月5日公開予定
第4回:坂上田村麻呂、北へ——推定予算数十億円、国家的事業としての「征夷大遠征」 ※7月12日公開予定
第5回:生かして連れ帰るという選択——アテルイ、モレの投降と坂上田村麻呂の決断 ※7月19日公開予定
第6回:塚に立つ木と刻まれたふたりの名——アテルイ、モレの処刑と坂上田村麻呂の願い ※7月26日公開予定
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