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牧野公園に伝わる坂上田村麻呂と北の民の物語

【ヒストリカル枚方】第2回:東北の地を見つめたまなざし——征夷大将軍・坂上田村麻呂という人物

「ヒストリカル枚方」は、枚方市の歴史に光を当てるシリーズです。前回は牧野公園の石碑で、誰もが一度は教科書で目にしたあの名——坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に出会った驚きを記しました。

歴史の教科書に登場する武将、征夷大将軍。しかし、その人物像を本当に知っている人は、意外と少ないのではないでしょうか。

そこで今回は、坂上田村麻呂がどのようにして「東北の地」と向き合い、日本史に名を刻んだのかを追いかけてみたいと思います。

甲冑を着て木造家屋の前に立つ征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の顔のアップ。髭をたくわえ、厳しくも優しい眼差しで遠くを見つめる。

坂上田村麻呂の出自と若き日々

木造の部屋で、白い産着を着た赤ちゃんを抱く父親と見られる男性。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の誕生の様子をイメージしたシーン。

坂上田村麻呂は、西暦758年ごろに生まれたと伝えられています。

生誕の地については定説がなく、奈良・京都・滋賀など諸説が残されています。いずれにせよ、都に近い地域で生まれ育ったと考えられています。

草が茂る平野で、鹿に向かって弓を構える少年の後ろ姿。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の幼少期のイメージ。
木の台に向かって座り、地図を書く青年の横顔。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の青年期のイメージ。

父・坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)は、武人として名を馳せ、坂上氏は百済系渡来人の血を引く一族とされます。

異文化への理解と、中央政権への忠誠をあわせ持つ背景は、のちに田村麻呂の立ち居振る舞いに、大きな影響を及ぼしたに違いありません。

馬に跨り、刀を構える青年の横顔。砂埃が立ち込める戦場の中で坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が戦う様子のイメージ。

幼少期や青年期の具体的な記録は乏しいものの、20代後半には、すでに朝廷で重用されていました。卓越した武勇と同時に、誠実で温厚な人柄が評価されていたことがうかがえます。

“征夷大将軍”に任ぜられるということ

朝廷の敷地内と思われる場所で、金色の華やかな着物を纏い、金の髪飾りをした男性。髭を蓄えた桓武天皇のイメージ。

坂上田村麻呂の名が歴史に大きく刻まれたのは、797年、桓武天皇から征夷大将軍に任じられたときです。

征夷大将軍とは、東北地方に住む蝦夷(えみし)と呼ばれた人々を服属させるため、軍事と政治の両面を統括する最高指揮官のこと。当時の朝廷は「律令国家の秩序」を東北にまで広げることを掲げ、繰り返し遠征を行っていました。

草原を馬で駆け抜ける兵士たち。砂埃が舞い、遠くの山に夕日が沈もうとする中、蝦夷討伐を行う軍のイメージ。

しかし、それまでの征討は武力一辺倒で、しばしば衝突や混乱を招いていたのです。

その流れを変えたのが、坂上田村麻呂でした。圧倒的な軍事力を備えながらも、文化・交易・対話といった“統治”の視点を取り入れた最初の将軍として、新しい時代を切り開いていきます。

戦の名将、統治の才

障子の前に立つ白い着物の長髪の男性。征夷大将軍に任じられた直後の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のイメージ。

坂上田村麻呂は801年(延暦20年)、征夷大将軍として第3次蝦夷征討に臨みました。

翌802年(延暦21年)には、蝦夷の重要拠点であった胆沢(いさわ/現・岩手県奥州市の胆沢区)を攻略し、胆沢城を築いて鎮守府を移します。

さらに志波(しわ/現・盛岡市周辺)にも大規模な城柵を設け、東北一帯に朝廷の支配体制を広げていきました。

浅黒い肌で髭を蓄えた逞しい男性が手を前方に伸ばし周囲の人々に指示する姿。上半身裸の者もおり、前合わせの服は見窄らしく、朝廷側とは異なる荒々しい雰囲気の蝦夷の人々のイメージ。

しばしば「田村麻呂の軍は過度な略奪や虐殺を避け、秩序を守った」と語られますが、それを裏付ける明確な史料は残っていません。

ただし、朝廷に恭順した蝦夷に対しては、融和策が取られたことが記録から読み取れます。

馬にまたがる白い着物の長髪の男性、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、地上で刀を構える長髪の蝦夷の男性と戦うシーン。蝦夷側は袖のない胴着を着て胸をはだけ、攻撃を仕掛けている。

また田村麻呂は、蝦夷の指導者との交渉を重視しました。アテルイとモレが生け捕りとして投降した背景には、田村麻呂の指導力や統治姿勢が大きく影響していたと考えられます。

だからこそ、田村麻呂は二人の命を救おうとしました。処刑の決定に際して、桓武天皇に赦免を願い出た――その伝承が今も残されています。

なぜ田村麻呂は、歴史に名を残したのか

赤い着物の上に甲冑を纏った朝廷軍の兵士たちが整列する中、中央に髭を蓄えた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が立つ姿。

坂上田村麻呂は、死後も朝廷からたびたび官位を追贈され、やがて神として祀られた数少ない武人です。

とりわけ東日本、なかでも東北地方には、今なお彼を祀る神社が数多く残っています。それは彼が単なる「征服者」ではなく、「秩序と共生をもたらした象徴」として人々に記憶されたからでしょう。

桜の木が立ち並ぶ名所の小さな塚に置かれた石碑を見つめる、白い着物に長髪の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の後ろ姿。アテルイとモレが処刑された後の様子をイメージ。

その足跡の一部が、枚方市・牧野公園の塚にも残されていること。そして、田村麻呂が守ろうとした命が、この地に寄留していたという事実。

歴史のなかでは“勝者の名”だけが刻まれることが多いもの。しかし田村麻呂は、“倒された側の命”にも心を寄せた人物でした。

それこそが坂上田村麻呂の魅力であり、次回に語る「アテルイとモレ」の物語へとつながっていく鍵なのだと思います。

次回はアテルイとモレという人物に焦点を当て、彼らがどんな存在だったのか、そしてどのようにして田村麻呂と出会い、なぜ処刑されることになったのかを紐解いていきます。

山を背景に立つ二人の男性。前合わせの服をラフに羽織り、胸がはだけており、揃いのペンダントが見える。左手の男性は肩で切り揃えた髪と手首に布を巻き、右手の男性は長い髪を下ろしている。蝦夷のリーダー、アテルイとモレのイメージ。

もくじアイコン(背景透過)

もくじ

第1回:枚方・牧野公園に眠る、坂上田村麻呂の後悔——石碑と伝承
第2回:東北の地を見つめたまなざし——征夷大将軍・坂上田村麻呂という人物
第3回:蝦夷文化とアテルイ、モレ——朝廷に抗ったふたりは反乱者か、英雄か
第4回:坂上田村麻呂、北へ——推定予算数十億円国家的事業としての「征夷大遠征」
第5回:生かして連れ帰るという選択——アテルイ、モレの投降と坂上田村麻呂の決断
第6回:塚に立つ木と刻まれたふたりの名——アテルイ、モレの処刑と坂上田村麻呂の願い


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牧野公園(枚方市)

牧野公園(枚方市)

大阪府枚方市牧野阪2丁目15

牧野公園は「枚方八景」にも選ばれた桜の名所で、地域に親しまれる憩いの場です。園内は東西に分かれ、滑り台やブランコ、飛行機型の遊具などが揃い、子どもたちの元気な声が響いています。片埜神社や牧野図書館、大阪歯科大学も徒歩圏内にあり、文化と学びに寄り添う場所です。(京阪電車「牧野駅」より徒歩約5分)

  1. 【ヒストリカル枚方】第3回:蝦夷文化とアテルイ、モレ——朝廷に抗ったふたりは反乱者か、英雄か

  2. 【ヒストリカル枚方】第2回:東北の地を見つめたまなざし——征夷大将軍・坂上田村麻呂という人物

  3. 【ヒストリカル枚方】第1回:枚方・牧野公園に眠る、坂上田村麻呂の後悔——石碑と伝承

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