枚方で叶える「ちょっとだけ」丁寧な暮らし

牧野公園に伝わる坂上田村麻呂と北の民の物語

【ヒストリカル枚方】第4回:坂上田村麻呂、北へ——推定予算数十億円、国家的事業としての「征夷大遠征」

「ヒストリカル枚方」は、枚方市の歴史に光を当てるシリーズです。前回は、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と対峙した蝦夷(えみし)のリーダー・アテルイとモレの人物像と、枚方での終焉を見てきました。

今回は、田村麻呂が京からどれほどの距離を進み、なぜ蝦夷の地へと踏み込まなければならなかったのか、「戦」ではなく、「国家プロジェクト」としての征夷の実像に迫ります。

夕日が差す草原を、馬に乗った人々が列を成して走る北を目指す朝廷軍。遠くに山が見える。

都から胆沢へ——数百キロの道のり

平安京の南北に走るメインストリート。左右には木造の館や木々が並び、奥の大きな階段を登った先には天皇が政務を行う場所がある。遠方には平原や山、川が広がる。

平安京から胆沢まで、どれほどの距離があったのでしょうか。

正確な出発地は記録に残っていませんが、ここでは仮に、平安京の正門である羅生門(朱雀大路の南端)を起点とします。現在の住所でいえば、京都府京都市南区唐橋羅城門町54——花園児童公園のあたりです。

目的地は、後に坂上田村麻呂が築城した胆沢城(現在の岩手県奥州市)と仮定しましょう。この2地点をGoogleマップで結ぶと、徒歩でおよそ833km、所要時間の目安は190時間(約7日)と表示されます。

しかし、これは現代の舗装道路を寝ずに歩いた場合の計算です。

当時はまだ街道の整備もままならず、山を越え、湿地を抜け、河を渡りながらの行軍。さらに、兵や物資を伴う大規模な遠征となれば、実際の移動には数十日、あるいは数か月を要したと考えられます。

羅生門を出てから胆沢に至るまで——その道のりは、単なる距離の問題ではなく、まさに「文明の境界」を越えていく旅でもありました。

茶色の馬に跨った着物姿の男たちが一列になり、草原の間にわずかにできた砂地の道を進軍している。遠くに山が見え、夕日が差している。
茶色の馬に跨った紺色の着物の男に焦点が当たり、周囲には同じく茶色の馬に乗った男たちが赤い旗を持って列を成し進軍している。砂地、夕日、遠くに山が見える。

動員された兵とその規模

夕方、木造家屋に召集された人々。征夷の兵として朝廷に動員された民衆が着物を着て真剣に話を聞いている。場には緊張感が漂う。

田村麻呂は、およそ3年の準備を経て、平安京を発ちました。記録によると、田村麻呂の率いた軍勢は、およそ4万人。その指揮系統には、軍監5人、軍曹32人が置かれていたそうです。

当時の日本において「4万人規模の軍隊」を動かすというのは、現代でいえば、中規模の都市全体が一斉に動くほどの人数です。

木造家屋に集められた着物姿の3人の男が、驚いたような表情で話を聞いている。兵として朝廷に徴収された民衆の様子。

この遠征は、戦の勝敗以上に、国家が東北を自らの版図に組み込むための象徴的な行為でした。田村麻呂の軍勢は、単に戦うための軍だけではなく、「国家が動いた」ことを示す、政治的・制度的な装置そのものでもあったのです。

それでもなぜ田村麻呂は北に向かったのか

平安京を高い場所から眺める桓武天皇の後ろ姿。赤い着物に金色の刺繍を施し、長い髪を団子にまとめて金の髪飾りをつけている。

では、なぜ朝廷はこれほどの負担をしてまで蝦夷を征したのか。背景には、桓武天皇の国家再編構想がありました。

暗い室内に横たわる白髪に白髭の老人。光仁(こうにん)天皇が桓武天皇に地位を譲渡した場面をイメージ。

桓武天皇は光仁天皇の譲位を受けて即位し、それまで続いた天武系王朝から天智系王朝へと皇統を切り替えました。つまり、政治の混乱を断ち、新しい時代を築くための「再出発」を目指したのです。

しかし、長岡京の造営責任者・藤原種継の暗殺事件や、早良親王の怨霊の祟り、さらに疫病や洪水が続き、国全体が不安と動揺に包まれました。これを受けて桓武天皇は延暦13年(794年)、平安京への遷都を断行します。

夜の薄暗い室内に蝋燭の灯りが灯る中、床に仰向けに倒れ、目を見開き口を開けた藤原種継。宮都造営の責任者として暗殺された場面をイメージ。
鳴り止まぬ雷と降り続ける雨の中、柱の下で怨霊の呪いだと騒ぐ着物姿の人々。

都の再建により政治の安定を図る一方で、朝廷の支配が及ばない地域——東北、蝦夷の地が残されていました。そこを平定し、国家の秩序を全国に広げることこそが「新しい日本」を完成させる鍵でした。

暗雲が立ち込める平安京の空の下、従者を付き添わせ、赤い着物で長い髪を団子にまとめた桓武天皇が後ろの街並みを振り返っている。

坂上田村麻呂の征夷は、勇猛な将軍の戦物語というよりも、朝廷が総力を挙げて実施した「日本の国づくりの最前線」だったのです。国家の威信をかけ、制度・兵力・経済を総動員した一大遠征。

その先にあったのは、単なる勝敗ではなく、「国家のかたち」を北へと押し広げるという歴史的使命でした。

次回は、歴史に記された“別れの場面”に迫ります。アテルイとモレの投降、京への帰還、そして田村麻呂の嘆願と、悲劇的な処刑——。

征夷の終幕に何が起きたのかをたどります。

赤い柱が立ち並ぶ内裏で、薄クリーム色の着物を着た坂上田村麻呂が怒りの表情で必死に叫んでいる。背後には紺色の着物を着た役人たちが静かに見守る。阿弖流為と母礼の助命を嘆願する場面。

もくじアイコン(背景透過)

もくじ

第1回:枚方・牧野公園に眠る、坂上田村麻呂の後悔——石碑と伝承
第2回:東北の地を見つめたまなざし——征夷大将軍・坂上田村麻呂という人物
第3回:蝦夷文化とアテルイ、モレ——朝廷に抗ったふたりは反乱者か、英雄か
第4回:坂上田村麻呂、北へ——推定予算数十億円国家的事業としての「征夷大遠征」
第5回:生かして連れ帰るという選択——アテルイ、モレの投降と坂上田村麻呂の決断
第6回:塚に立つ木と刻まれたふたりの名——アテルイ、モレの処刑と坂上田村麻呂の願い


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堀 寛未

堀 寛未

HORI HIROMI

大阪府枚方市出身。社会事業開発ACTION代表。ひらかたパークで宣伝広報として勤めたのち、2020年よりソーシャルビジネスに携わり、これまでライティングや、マーケティングなど、829本以上の動画講義をあげてきた。「枚方で叶えるちょっとだけ丁寧な暮らし」をコンセプトにしたローカルメディア「Re:HIRAKATA」を運営。

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