「ヒストリカル枚方」は、枚方市の歴史に光を当てるシリーズです。
前回は、蝦夷のリーダー・アテルイとモレの投降、そして彼らを生かして都へ連れ帰るという、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)決断についてお話ししました。
今回は、本連載の最終回として、アテルイとモレの投降から処刑に至るまでの経緯をたどりながら、坂上田村麻呂が何を考え、何を守ろうとしたのか、そしてその決断が後世に何を残したのかを見ていきます。

平安京への到着と寄留

延暦21年(802年)7月10日、征夷大将軍・坂上田村麻呂は、蝦夷の首領であるアテルイとモレを伴い、平安京に入ったという記録が残っています。
『日本紀略』延暦21年(802年)7月10日条
『庚午。征夷大将軍坂上大宿禰田村麻呂等、夷大墓公阿弖利為・盤具公母禮等を領(つ)れて京に入る。』(意味:7月10日。征夷大将軍の坂上田村麻呂らが、蝦夷(えみし)の首領である大墓公阿弖流為(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)らを連れて平安京に入った。)
注目すべき点は、彼らが都に入ってすぐ処刑されたわけではない、という事実です。7月10日の入京から、処刑が記される8月13日まで、およそ一か月あまり(34日間)の空白があります。
その期間に処遇をめぐって朝廷内で一定の協議が行われていた可能性は否定できません。
アテルイとモレは、この間、自らの運命がどのように決まっていくのかを知ることなく、都のどこかで、その判断を待っていた——。史料が沈黙しているからこそ、そうした時間の重みが静かに浮かび上がってきます。


処刑決定までの朝廷内の議論

記録によれば、坂上田村麻呂らは、アテルイとモレの処刑に反対し、朝廷に対して次のように進言していました。
『日本紀略』(延暦21年8月13日の条)
「将軍等申して云(いわ)く、『此(こ)の二人を以て郷里に放し還(かえ)し、其(そ)の類(るい)を誘(いざな)わん』と。」
(意味:(坂上田村麻呂ら)将軍たちが(朝廷に対して)申し上げたことには、『この二人(阿弖流為と母禮)を郷里に帰し、彼らの力をもって、まだ抵抗を続けている仲間の蝦夷たちを誘い出し、帰順させるべきです』と。)
これにより、少なくとも将軍側は、二人を単なる「反逆者」として即座に処断する考えを持っていなかったことが分かります。

しかし、公卿たちの判断は厳しいものでした。
「而(しか)るに公卿等議して云く、『野性獣心、反復(へんぷく)定まりなし。若(も)し朝威に乗じて本境に放し還せば、所謂(いわゆる)虎を養いて患(うれい)を遺(のこ)すなり』。」
(意味:しかし公卿(貴族)たちは「(蝦夷の)野蛮な心は獣のようで、裏切りを繰り返して定まることがない。もし彼らを郷里に帰せば、いわゆる『虎を養って後々に災いを残す』ようなものだ」と議論した。)
ここに見えるのは、個人としてのアテルイやモレではなく、中央政権が抱いていた「反抗勢力一般」への恐怖と不信でした。
最終的に、この議論の末、助命案は退けられ、アテルイとモレは処刑されることになります。
処刑地「河内国□山」をめぐる三つの説

『日本紀略』延暦21年8月13日条には、アテルイとモレを処刑した地について「河内国□山に於いて斬る」と記されています。
ただし、この「□山」にあたる地名表記は、写本によって異なっており、統一されていません。そのため、処刑地をめぐっては、現在までに複数の説が提示されています。
まず、最も一般的とされているのが、椙山(すぎやま)説です。
この説では、『日本紀略』に見える「椙山」を、現在の大阪府枚方市東部、旧交野郡杉村周辺に比定します。江戸時代以降の地誌や郷土史でも採用例が多く、一定の広がりを持つ説です。
次に、杜山(もりやま)説があります。
これは一部の写本に見られる表記で、「椙山」と同一、あるいは極めて近接した地域を指すと考えられることが多く、
実質的には椙山説の異表記と位置づけられる場合もあります。
三つ目が、植山(うえやま)説です。
この説では、「植山」を現在の枚方市宇山(うやま)の古名と捉え、牧野公園に残る「伝阿弖流為母禮之塚」を処刑地、もしくはその関連地とみなします。
一方で、研究者のあいだでは、より慎重な見解も示されています。
『日本紀略』の記述は、あくまで「河内国□山」とあるのみで、村名や郷名といった具体的な地理情報が付されていません。
この点から、写本ごとの差異を踏まえても、処刑地を一地点に確定することは困難であり、正確な場所は「不明」とするのが学術的には妥当であるとする立場が、現在では有力とされています。
史料が示すのは、処刑が河内国で行われたという事実までです。
それ以上の比定については、伝承や後世の解釈が大きく関与している——。この距離感を保つことが、歴史を扱う上で欠かせない姿勢だと言えるでしょう。
牧野公園に残る塚と、記憶を受け継ぐということ

これで、ヒストリカル枚方「牧野公園に伝わる坂上田村麻呂と北の民の物語」は、ひと区切りとなります。
そもそも、この話を書こうと思ったきっかけは、桜を撮影するために牧野公園を訪れたことでした。
私は枚方市の出身で、子どもの頃から牧野公園で遊んで育ちました。そのことは、「第1回:枚方・牧野公園に眠る、坂上田村麻呂の後悔——石碑と伝承」でも触れたとおりです。
当時から、公園の中央には塚がありました。大きな木の根元に、花や水が供えられていた光景を、今でもうっすらと覚えています。
けれど、それが誰のためのものなのか、なぜそこにあるのかを、深く考えたことはありませんでした。
大人になって改めてこの場所を訪れたとき、そこに立派な石碑が建ち、「坂上田村麻呂」や「蝦夷」といった、日本史の教科書で目にした名前が刻まれているのを見て、強い驚きを覚えました。
自分が生まれ育った枚方という土地が、何百年も前から人々の営みの場であり、悲しみも喜びも重ねながら、その記憶を現代まで伝えてきた場所なのだということ。
その事実を、初めて実感した瞬間でした。
史料の上では、アテルイとモレが処刑された正確な地点を確定することは困難です。その点については、本連載で見てきたとおりです。
それでも、この牧野公園の塚は、少なくとも後世の人々が、二人の最期を悼み、忘れまいとしてきた——その思いが形となって残された場所だと、私は考えています。
参考文献・史料
- 『続日本紀』
桓武天皇の即位、長岡京遷都、藤原種継暗殺事件、および初期の蝦夷征討と坂上田村麻呂登用の記録。 - 『日本紀略』
延暦21年の阿弖流為・母禮の入京、坂上田村麻呂による助命嘆願の否決、および河内国での処刑に関する記述。 - 『日本後紀』(逸文含む)
坂上田村麻呂の薨去に際しての卒伝および功績評価。 - 現地案内板(大阪府枚方市・牧野公園)
処刑地伝承および「伝 阿弖流為・母禮之塚」の由緒。


もくじ
第1回:枚方・牧野公園に眠る、坂上田村麻呂の後悔——石碑と伝承
第2回:東北の地を見つめたまなざし——征夷大将軍・坂上田村麻呂という人物
第3回:蝦夷文化とアテルイ、モレ——朝廷に抗ったふたりは反乱者か、英雄か
第4回:坂上田村麻呂、北へ——推定予算数十億円、国家的事業としての「征夷大遠征」
第5回:生かして連れ帰るという選択——アテルイ、モレの投降と坂上田村麻呂の決断
第6回:塚に立つ木と刻まれたふたりの名——アテルイ、モレの処刑と坂上田村麻呂の願い
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